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洪吉童伝

目次

  1. 父を父とも呼べず
  2. 陰謀 – 음모 –
  3. ある夜の刺客 – 한밤의 자객 –
  4. 家を出る – 집을 떠나다 –
  5. 活貧党(ファルビンダング) – 활빈당 –
  6. 御命 – 오명 –
  7. 対決 – 대결 –
  8. 8人の吉童 - 8명의 길동 –
  9. 兵曹判書となる – 병조판서가 되다 –
  10. 茫蕩山の妖怪たち – 망탕산의 요괴들 –
  11. 名堂 – 명당 –
  12. 12.理想郷・栗島国  – 이상향 율도국 –

洪吉童伝

1. 父を父とも呼べず

朝鮮時代、第4代・世宗大王の時の話だ。

一人の宰相がいた。姓は洪(ホング)、名は阿憮蓋(アムゲ)と言った。代々『名門巨族』と呼ばれる家系に生まれ若くして官僚の登用試験である科挙に合格し官職は吏曹判書(イジョパンソ=文選・勲封・考課を総括する役所の長官)である。その人格の優秀さは朝廷内だけに留まらず庶民の間でも評判となり「忠孝の人」と呼ばれ、その名は朝鮮全国に知れ渡っていた。

洪判書には二人の息子がいた。一人は名を仁珩(イニョング)と言って正妻である柳氏から生まれた。もう一人は名を吉童(キルドング)と言い、この家の小間使いである春繊(チュンソム)から生まれた子であった。

話は吉童が生まれる前に戻る。ある日、洪判書は不思議な夢を見た。

澄んだ青い空が急に真っ暗になると稲光が音を発てて轟き天地がひっくり返るのかと思う程であった。すると次の瞬間、黒い雲の間から青い龍が現れて髭をなびかせながら、いきなり洪判書に向かって走り寄って来るのだった。

「う!うぁー!」

洪判書は驚いて悲鳴を上げた。その瞬間、目を覚まし、今見たものが夢であったことに気付くと・・・・。

〝龍の夢を見ると賢い息子を授かると聞いたことがあるが・・・・″

洪判書は縁起の良い夢を見たこと喜び、そのまま内堂(妻の寝室)にむかった。夫人柳氏は起き上がり丁重に洪判書を出迎えた。

「何かご用でしょうか?」

洪判書は嬉しさをこらえつつ夫人の手を引いて座らせると夫人を抱き寄せようとした。すると夫人は真顔で次のように答えた。

「相公(宰相に対する敬称)は地位も高い方なのに、若く軽薄な人の様な高尚で無いことを成されようとは、私はお受けできません。」

夫人は話を終えると手を振りほどいて出て行ってしまった。洪判書はとても恥ずかしく、また口惜しい気分を抑えることが出来ないまま舎廊房(居間棟)に向かいつつも、まだ夫人の無知を嘆いていた。

「なんてことだ・・・」

丁度その時、小間使いの春繊が洪判書にお茶を持ってきた。

〝おっ!可愛いな″

洪判書は自分も気付かぬ内に春繊の手を握っていた。この時、春繊は18であった。 春繊は洪判書に身体を許してからは決して家外に出ることはなく、家外の者とは会おうともしなかった。すると洪判書がこうした態度を見て春繊を妾にとした。

すると、春繊はその翌月には懐妊の兆しを見せ10月後には男子を生むこととなる。生まれた子供は顔立ちが非凡で、英雄豪傑の風貌を見せていた。

この子が吉童である。

洪判書は一方では喜びながらも、吉童が正妻との間に生まれた子ではないことを残念に思ったりもした。

吉童はすくすくと育ち、いつの間にか8歳になっていた。吉童のその聡明さが普通を越え、《一を聞けば吉童が百を理解する》姿を見て洪判書は益々吉童を愛し大切に考える様になった。

しかし出自の卑しい母から生まれたという理由から、吉童が父や兄を《父上》《兄上》と呼ぶことは固く禁じられていた。

「なぜ私は父上を父と呼んではいけないのですか?なぜ兄上を兄と呼んではいけないのですか?」

ある日、吉童は無意識の内に洪判書を父と呼んだことで酷く叱られると、涙をこらえて母・春繊のもとに走りなじる様に訴えたのだった。

「私もお前がそのようにしか出来ない事に胸が痛いのだよ。だけども、どう仕様も出来ないじゃないか。この国の法がそうなのだから・・・」

春繊はそう言いながらため息をつくのだった。

そんな母を見て吉童はそれ以上何も言えなくなってしまった。

そうした折のある年の9月の満月の日のことだった。

月はとても明るく風はそよそよと吹き、人の心の中にわだかまった恨みごとさえも呼び起こされる様だった。

自室で本を読んでいた吉童は突然パタッと本を閉じると大きくため息をつき

「大丈夫(いっぱしの男子)がこの世に生まれ孔子や孟子を手本に国の為に尽くすべきだし、そうでないなら大将となって敵国を征伐して国に大功を建て、名を万代・末代にまで輝かせたいものだ。それなのに私は何の因果かこの身を頼りにならず寂しく、父や兄がいても《父上》《兄上》と呼ぶことも出来ず、心は張り裂けそうだ。」

すると庭に下りて月明かりを頼りに剣術の稽古を始めるのだった。

「イッヤ!ヤッー!」

剣が振られるたびに月明かりを分け白い光が丸く弧を描いた。

吉童は飛んでは跳ね、跳ねては飛びながらぐるぐる廻りつつ剣を操った。

すぐに全身が汗だくとなった。心の中に積もった恨みが少しは消え去られる様だった。もやもやしながら部屋で本を読んでいるより遥かに気分は軽かった。

「ウォッホン!」

吉童が少し休んで額の汗を拭っていると洪判書の咳払いをする音が聞こえた。洪判書もちょうど月見をしようと出て来たのだった。

吉童の姿を見た洪判書が呼びとめた。

「お前は何が面白くて夜更けまで寝ないのか?」

洪判書の声は厳格でありながらも穏やかであった。

吉童は一礼をして腰を軽くかがめる姿勢を取り答えた。

「月明かりが美しいので見物をしていました。」

「月を見物する者がその様に剣を握って飛び跳ねるということか?」

「申し訳ありません、大監(正二位以上の官職者に対する敬称)さま」

吉童は頭を下げた。

「他の者たちがこの有様を見たら何とする?部屋に戻って寝なさい。」

洪判者はそこまで話をすると戻ろうとした。

「大監さま、お話したいことがあります。」

吉童が背を向けかけた洪判書に向かって言った。

「何の話だ?」

洪判書が再び吉童の方に振り返った。

「天が万物を作る時、人を最も尊い者として作りました。ところが私は尊いところが一つも無いのになんで人だと言えましょうか?」

「それは何の話だ?」

洪判書は吉童の話の意味が解らない訳ではなかったが、わざと咎める様に聞き返した。

「私が日頃から悲しく思っていましたのは間違いなく大監さまの精気を受けていっぱしの男子となり、父母への恩恵を深く受けていながら、父を《父上》と呼べず兄を《兄上》と呼ぶことが出来ないことです。そんな私をどうして人であると言えましょうか?」

吉童の目から流れる涙は上着にまで伝わっていた。その姿を見て洪判書は吉童を哀れに思うのだった。そして胸の内では、

〝その通りだ、私がどうしてお前の恨みに気が付かないだろうか?全て承知している。″と思いつつも

若し万一その様に慰めることで更に心が弱くなるのではと心配して、反対に

大声で咎めた。

「宰相の家に賤しい腹から生まれた子供が一人や二人か?もう一度この様な話を口にしたら、その時は容赦しないぞ。」

吉童はおそれ多くてそれ以上一言も話すことが出来ず、ただその場にうずくまって涙を流すだけだった。

「もう部屋に戻れ。」

洪判書が命じた。

吉童は涙を拭くと立ち上がり部屋へ戻っていった。しかし、床に入っても悲しい気持ちが付きまとい暫らくは眠ることが出来なかった。

それから数日後、吉童はそっと母である春繊の新序を訪ねた。

「何の用だね」

「母上の元を離れようと思いご相談に参りました。」

吉童のその言葉に母は肝を冷やす思いだった。

「離れるとは、何のことなの?」

「私は母上と前世の縁があってこの世で母子となり、その御恩はこの上ありません。しかし、私は数奇な運命から賤しい身となりどう仕様もなりません。男子たるもの世に行きながら賤しい待遇を受けることは我慢できません。そこで浅はかな考えではありますが母上の元を離れようと、伏してお願いに参りました。どうぞ御身体を大切にされて下さい。」

吉童の話を聞いて母がなだめる様に話し始めた。

「宰相の家で賤しく生まれたのはお前だけではないのに、母の心を困らせる様な事を云うのだい?」

「既に固く決めたことです、お許し下さい。必ず修行を重ね、後世に名を残して見せますので、母上は安心してどうかその日をお待ち下さい。」

「お前がここを出て行けば母は誰を頼りに生きて行けば良いのだい。」

母の目からは涙が止めどなく流れた。

吉童の目にも涙がにじんでいた。

2. 陰謀 – 음모 –

洪判書の屋敷にもう一人の妾がいる。屋敷では谷山殿と呼ばれ、遊郭で伎生(キーセン)をしていた女性で洪判書の寵愛を受けこの家に入ったが名を梢蘭(チョラン)といった。

彼女は元来、性格が非常に傲慢で我儘であり、自分の気に入らないと洪判書(ホングパンソ)の所へ行って悪口し、在りもしないことを告げ口したりした。その為に屋敷中が大混乱することが度々であった。

その中でも彼女は、

〝私には息子がいないのに春繊(チュウンソム)は吉童(キルドング)を生んでいることで洪判書から常に大切に思われている。″

と胸の内で不満に思っていた。

〝私だって息子が一人いれば大監(デェガム)の寵愛を独占することが出来るのに・・・。

どうすれば吉童を無き者に出来るか?″

ある時、日頃から吉童とその母・春繊を目の仇にして、機会があれば陥れようと悪略を考えていた梢蘭は侍女にある巫女を呼ばせた。

「今後、私が更に寵愛を受ける為には吉童を無き者としなければならない。お前が若し私の望みを叶えるのに力を貸すなら、褒美を厚くとらせよう。」

梢蘭の言葉に巫女が膝をついたまま近付いて声を落として囁いた。

「近頃、興仁門(東大門)近くに良い観相家がいると聞きます。人の観相を一度見ればたちどころに人の行く末と災いを言い当てると評判です。予めその者を呼んで打ち合わせた上で大監さまに推薦して見なさい。屋敷で以前あったことを見ていた様に言い当てた後に、吉童の相についてあれこれ言えば、大監も必ず気になって、そのままにして置かないでしょう。”

「それは妙案だ。」

梢蘭はとても喜んで先ず銀銭で50両余りを与えた。

巫女は跳び付く様に金を受け取ると、さっさと懐に収めながら小声で呟いた。

〝こんなに多くの金を頂けるなんて・・・″

「速く行ってその観相家を連れて来なさい。事さえ上手く運べばもっと考えてやるから。」

梢蘭の言葉に巫女は満足そうに笑みを浮かべた。

「解かりました、奥様。すぐに連れて参ります。」

巫女は挨拶をすると小走りに出て行った。

その二日後、洪判書は内堂(妻の寝室)で柳氏夫人と吉童のことを話していた。

「一を教えれば十を悟り、何事も一度見れば知らない物はなく、なのだが・・・例え英雄の気質があったとしても、それを一体どこに使うのか?あの子が夫人から生まれてさえいたなら。」

洪判書がこうしてため息をつくと、柳氏夫人は苦い表情で聞くしかなかった。

その時だった。一人の女が家の中に入って来て庭先から一礼すると、

「大監さま、ご挨拶申し上げます。」

洪判書がいぶかしげに問い正した。

「お前は誰だね、何の用だ。」

「私は観相を生業としているものです。ちょうどこの近くを参りましたが、知らず知らずの内に大監さまのお宅に足が向きました。」

「ほー、観相を・・・・」

暫らく何か考えていた洪判書は、その観相家を家の中に呼び入れた。

「お前に見て貰いたい者がいる。」

洪判書が言った。

ちょうど夫人と吉童のことを話していた時だったので、彼の将来について尋ねたいと思ったのだった。

洪判書はすぐに家の者に吉童を呼びに行かせた。

「お呼びでしょうか?」

「ああ、こちらに入りなさい。」

吉童が入って洪判書の前にひざまずいて座った。

すると観相家は吉童の顔をじろじろと覗き込むと、殊更に驚いた表情をした。

「こちらのお坊ちゃまの相を見ますと、類まれな英雄で一時代を揺るがせるような豪傑です。しかし、身分が低いので他の心配はない様に思われますが…」

そして何か付け加えようとしたが、左右の者たちの存在を気にする様なそぶりでためらって見せるのだった。

その様子を見た洪判書と夫人は更にこの態度が気になり口を開いた。

「何のことなのか、見た通りに話して見なさい。」

観相家は言いにくそうに〈人払いをしてほしい〉と顔で訴えると、

「お前たちは下がりなさい。」

洪判書が吉童と下人たちに促した。

吉童と下人たちが退室すると、観相家は話を始めた。

「お坊ちゃまの顔を見ますと人と調和しようとする心が全く見られず、眉間には精気があふれ、間違いなく王や大臣になる相です。それで・・・・畏れ多く、申し上げにくいのですが、成長すれば次第に家運を滅亡させる災難を被ることと成り・・・・大監さまにおかれましては良くお考え頂いた方が良いかと思います。」

その言葉に洪判書は大きく驚き、顔は真っ青になった。

「何だって?それは本当か?」

「どなたの前で嘘を申し上げましょうか?私はただ目に見えたことだけを申し上げているので御座います。」

洪判書はため息をつくと暫らく目をつぶっていたが、やがて決心したかのように口を開いた。

「人の星廻りは避けがたいものだ。お前はこの事を絶対に口外してはならない。若し一言でも外に漏れる様な事があれば、その時は命が無いものと思え。」

そう命じると、洪判書はその観相家に若干の銀銭を与え送り出した。

そんなことがあった後、洪判書は吉童を屋敷の裏山に建てた別棟に寝泊まりさせる様にした。

「これからは外に出ないで謹慎していなさい。」

そして洪判書は吉童の行動の一つ一つを注意深く見守るのだった。この様な扱いを受けた吉童は、今まで以上に孤独感を感じるのだった。誰にも告げることの出来ない鬱憤に息が詰まる思いだった。

〝私の前世に何の罪があって・・・・″

しかし、すぐに気持ちを切り替えて中国の兵書である六韜三略と天文、地理などを読みふけった。

洪判書はこうした吉童の様子を知ると更に心配になった。

〝こいつは普通の子供とは違って根っから見所がある奴だ。もし身の程を越える事に心を捕われたなら、観相家の言うとおり家内に大きな災いを及ぼすであろう・・・。どうしたものだろうか?″

この時とばかりに梢蘭は侍女や観相家と内通して洪判書の心を乱し、吉童を無き者にしようと大金を出して刺客を雇ったのだった。

その刺客の名前は特栽(トゥクチェ)といった。特栽は力も強く胆力もあり、何よりも剣の扱いに手慣れた男であった。

梢蘭は誰にも知られない様に自室に特栽を引き入れると、これまでの事情を事細かく説明して命じた。

「時を見て、(機会があれば)すぐに知らせるから用意をして置く様に。」

「解かりました、奥様。」

特栽が出て行くと、梢蘭は洪判書の顔色を見ながら機会を見てこう告げた。

「以前に観相家が吉童には王になる相があり、もし分別のない事がすれば家内に大きな災いをもたらすであろうと言っていたではありませんか?賤妾の私でも大変驚きました、大事になる前にあの子を始末してしまうのが良いのではないでしょうか。」

この言葉を聞いて洪判書は気乗りしない様子で眉を動かした。

「お前はどうしてその様なことを気軽に口にするのか?このことは私が良い様に始末するので、要らぬ口を差し挟まぬように・・・」

洪判書の厳しい態度に梢蘭はそれ以上何も云えず退散するより仕方無かった。

3. ある夜の刺客 – 한밤의 자객 –

あの様に梢蘭(チョラン)の話を遮ったものの、洪判書(ホングパンソ)の心は重く夜も眠れない日が続いた。夜に眠れない為に自然に食事ものどを通らなくなり、やがて病気になってしまう。

この事態に夫人と、長男で吉童(キルドング)の兄の仁珩(イニョング)は大変心配した。

「どうしたら良いのか?」

夫人は心配のあまり大変落胆してため息をついた。

 「本当に困ったことだ。心配ごとの為に病気になってしまわれた様だ。」

仁珩もどうしたものか分らず表情が暗かった。

二人が心配するのを見て、梢蘭がそばに寄って来て話し始めた。

「大監(デェガム=正二位以上の官職者に対する敬称)を悩ませているのは吉童です。観相家の話を聞いても、どうすることも出来ずに悩まれて、あの様になってしまわれたのです。大監さまも吉童を始末されようと考えたのですが、どうしても決心することが出来なかったのです。私のつたない考えでは先ず吉童を始末した後で、大監さまにお知らせするのが良いと思います。そうすれば、既に起きたしまったことなので大監さまがお知りになっても、やむ得ぬものと思われ、自然に病も快方に向かわれるだけでなく家門も保たれるものと考えます。如何でしょうか?」

梢蘭の言葉に夫人は首を横に振った。

「確かにそうだとしても、天の思し召しがあるのに、人としてその様にして良いものなのか?」

すると梢蘭は再び続けた。

“聞くところに依ると特栽(トゥクチェ)という刺客が居て、人を殺すことなどは懐の物を掴むくらいに簡単に行うと言います。その者に金を与えて夜更けに忍び込ませて実行させれば間違いなく始末できます。ためらっていて時期を逃し大事に至れば、その時は後悔しても取り返しがつきません、どうか深くお考え下さい。」

やがて夫人と仁珩は涙を流しながら次に様に告げるのだった。

「これはとても良くないことなのだが、一つ目は国の為であり、二つ目には大監の為であり、三つ目は洪氏の家門を守るためだ。お前の計略通りに事を処理しなさい。」

〝それはそうだろう。この方法より良いものなんてある訳がない。″

梢蘭はとても喜び会心の笑みを浮かべた。

夫人と仁珩の承諾を無理やり取り付けると、直ちに自分の部屋に戻った梢蘭は改めて特栽を呼んだ。

そして、過分の金を与えながら言った。

「今晩、吉童を消せ。誰にもわからない様に・・・。万一ちょっとでも失敗することがあれば、私もお前も生きてはいられない筈だ。解かっているね。」

「間違い無く処理しますから心配なさらないで下さい。あっしは今まで一度もしくじったことはありません。」

特栽は自信あり気に答えると金を懐に入れて部屋を出て行った。

一方、吉童は自分が本妻との間の子ではない庶子であることを考えると少しの間もじっとして居られなかった。しかし洪判書の厳しい命令なのでやむを得ず山中でじっと我慢の生活を送っていた。そうした生活を続けて見ると、夜なかなか眠ることが出来なかった。

この日の晩も吉童はろうそくを灯して読書にふけっていた。

やがて夜も更け床に入ろうとすると、急にカラスが3度鳴く声が聞こえた。

〝妙だな。カラスは元々暗い夜を嫌うのに、こんな夜中に鳴くとは何か不吉な兆しに違いない。″

以前に〈八卦〉を読んだことのある吉童は、ハッと思い当った。

〝あっ!誰かが私を襲おうとしているな!″

吉童はいち早く机を押しやると遁甲法を使って身を隠した。そしてしばらく動静を見守った。

まだ夜が明けるには随分と間がある時だった。誰かが匕首を持ってゆっくりと部屋の扉を開けて入って来るのがわかった。月明かりに照らされてその男の匕首がキラッと光った。

〝私の感があたったな。″

吉童は急ぎ術を掛ける呪文を唱えた。

するとどうだろう。男の辺りは急に冷たい風が吹き始め、押し込もうとしていた家は何処かに消えてしまい、進めば進む程に山深くなっていった。

特栽は異変に気付いて匕首を懐に収め逃げようとした。ところが突然、道が途切れて高く険しい絶壁に、自身の行く手をふさがれてしまった。

特栽は状況の変化に戸惑いながらも、とっさに来た道を引き返そうとした。ところが今度は目の前に深い谷が広がっているではないか。

特栽は前に進めず、後ろにも退けず途方に暮れていると、何処からともなくさわやかな笛の音が聞こえて来た。

特栽は〝助かった″と思い、笛の聞こえる方向に近付いて行った。

すると何故か一人の少年が驢馬に乗りながら笛を吹いていた。

程なくすると少年は笛を吹くのを辞めて特栽を咎めた。

「お前は何故、私を殺そうとするのか?罪無きものを殺そうとするなら、必ず天罰を下るであろう!」

そしてまた吉童が呪文を唱えた。

すると今度は辺り一面に黒に雲が立ち込め、土砂降りの雨が降り始めた。

特栽は何とか気を落ち着けて少年の姿を確かめると、その少年こそが吉童であることを漸く悟ったのであった。

この事態を不思議に思いつつも、特栽は日頃の自信を取り戻して、

〝どうやって俺に勝つつもりでいるのか″

と自身に言い聞かせつつ、大声で怒鳴った。

「お前が死んでも俺を怨むなよ!梢蘭奥様が巫女と観相家に命じて大監と相談してお前を殺そうと決めて命じたことだ。だから俺を怨む筋合いではない。」

そうして特栽は再び匕首を握って吉童に襲いかかった。

すると吉童は、妖術を使って特栽の匕首を奪い取り大声で咎めた。

「お前は金を貰って人を殺すことを楽しんでいるようだが、お前の様な奴は後腐れなく今ここで退治してやろう。」

吉童が言い終えるや匕首を手にさっと飛び上がったかと思った次の瞬間、特栽の首がパタンと音とたてて地面に転がった。

吉童はそのまま夜の内に興仁門(東大門)近くに住むという観相家の家にまで行くと、有無を言わさず観相家を取り押さえると、特栽が死んでいる所まで引っ張って行くと言い放った。

「この悪徳観相家が!お前は私に何の恨みがあって梢蘭と手を組んで私を殺そうとしたのか?」

「あっ!」

特栽が死んでいるのを見た観相家は驚き、その場に柳の枝の様になよなよと崩れ落ちると、吉童の顔を見上げて両手を合せて拝むような仕草をとった。

「お許し下さい、お坊ちゃま!私には何の罪もありません。私は只、梢蘭奥様が命じる通りにしただけです。どうかお許し下さい。」

「言われる通りにするにしても他にあるだろう。そうだ、お前は人を殺すのも言われた通りにするのだろう。殺して後世の見せしめにしてやろう。」

吉童は卑屈に命乞いをする観相家に向かっても剣を振り降ろしたのだった。

金の為に梢蘭の口車に乗って吉童を陥れようとした観相家ではあったが、その最後は哀れであった。

4.家を出る – 집을 떠나다 –

吉童(キルドング)が二人を始末して、ふと空を仰ぎ見ると天の川が西の空に傾きかけており月明かりは、ぼんやりと光っていた。まるで吉童の行く末を案じている様であった。

それでも吉童は、まだ怒りが収まらず、そのまま梢蘭(チョラン)の所へ向かったのだが、その途中で歩みを止めた。

″あの者は父上が愛した女人なのに、どうして私が一時の怒りに任せて人倫に背くことが出来ようか。むしろ私が何処かへ行ってしまおう。″

吉童はそれまで掴んでいた匕首を勢いよく投げ捨てた。

〝何処か遠くへ行って生きる道を探して見よう。″

と考えた吉童は直ちに洪判書(ホングパンソ)の寝所へと歩みを変えるのだった。暇(いとま)乞いをするつもりであった。

「大監(デェガム)さま。」

吉童は洪判書の寝所の前で正座して声を掛けた。

「誰だ?」

洪判書は人の気配を感じて聞き返しながら扉を開けた。

そこに吉童がかしこまっているのを見て洪判書が言った。

「夜もまだ暗いのに寝ないでいるのはどういう訳だ。」

吉童は泣きながら答えた。

「私をこの世に生んで頂き、今まで育てて頂きました父上・母上の御恩の万分の一でもお返ししたいと思っていましたが、屋敷にいる不届き者が大監さまを欺いて私を殺そうとしました。」

「何だと?それは本当か?」

洪判書は驚いてさっと立ちあがった。

「本当です、大監さま。幸いにも命は無事ですのでご安心ください。しかし、これ以上この屋敷に留まる事は大監さまにとっても私にとっても望ましいことではないと思います。それでお別れのご挨拶を申し上げに参りました。」

洪判書は何か訳がある筈だと思った。

「何があったかは夜が明ければわかる筈だから、今は部屋に戻ってやすみ、その後の沙汰を待ちなさい。」

だが、吉童は座ったままの姿勢で話を続けた。

「私は、このまま屋敷を出るつもりです。大監さまにおかれましては御身体を大切になさって下さい。再びお会いすることはないものと思います。」

「そうか、そんなに決心は固いか。ここを出て何処に行くつもりだ。」

洪判書は部屋の外に出て来て尋ねた。

「私の境遇は浮雲の様なもので、行く先を決めている訳ではありません。」

吉童は流れる涙でそれ以上話を続けることが出来なかった。

洪判書その姿を見て不憫に思い慰めの言葉を続けた。

「私はお前がこれまで何を悩み怨んできたにかを知っている。今日から父と呼び兄と呼ぶことを許そう。」

吉童の目からは再び熱い涙が溢れた。

「私の心にこれまで積もり積もった恨みを父上が解消して頂き、今は死んでも恨みは一つもありません。改めて切に父上の萬壽無疆(長寿と健康)をお祈り申し上げます。」

そう言うと立ち上がり、もう一度深く礼をした。

洪判書はこれ以上引き止めることも出来ず、ただ無事を祈るだけだった。

洪判書の前を発った吉童はその足で母・春繊(チュンソム)の寝所を訪ね離別の挨拶をした。

「何ですって、本当にこの屋敷を出ると言うのですか?」

吉童の言葉に春繊は驚き目を大きくした。

「いつかは出ようと思っていたことです。やむ得ぬ事情で少し早くなっただけの事です。私は今、母上の元を去りますが、またお会いする日がある筈です。それまで尊い御身体を大切になさって下さい。」

春繊はこの話を聞くと何か理由がある筈だと悟ったが、それ以上は何も聞かなかった。ただ息子の手を握り泣き崩れるだけであった。

「お前はどこへ行こうと言うのだい。同じ屋敷に居ても寝所が離れていて何かと気に掛かっていたのに、旅に出たお前をどうして忘れることが出来るだろうか?早く戻って、また一緒に暮らせることを願っているよ。」

吉童はもう一度、礼をして暇乞いして部屋を出た。

その吉童の姿は、雲がかかった高い山々が続く彼方に目的も無しに向かう様でとても痛々しかった。

一方、梢蘭(チョラン)は一晩中を一睡もせずに特栽(トゥクチェ)からの連絡を待っていた。ところが朝になっても何の連絡も無かった。

〝おかしいぞ、こんな筈ではないのに・・・・″

梢蘭はどうにも気に掛かり、気付かれない様に人を使って調べさせた。

「おくさま、奥様!」

吉童の宿所に行って来た侍女が慌てて飛び込んで来て叫んだ。

「どうなったのだ?」

待ち構えていた梢蘭が待ちわびた様に尋ねた。

「吉童は何処へ行ったのか見当たらず、人が死んでいるではありませんか。

それも二人も・・・」

侍女は真っ青な顔でそこまで告げると、その場に座り込んでしまった。

「二人も?誰が殺したと言うのだ。」

「一人は例の観相家でした。もう一人は、おそらく昨日の晩、この部屋に来た男だったと思います。」

梢蘭はどうすれば良いのか解からず、慌てて柳夫人の元へ走り事態を伝えた。

「奥様!吉童は何処へ行ったのか見当たらず、刺客と観相家が死んで倒れていると言います。」

「それは本当か?それが事実なら、こんな事をしている場合ではない。すぐに大監さまへお伝えしなければ。」

柳氏夫人もまた大変驚き、息子の仁珩(イニョング)を呼び相談した上で、洪判書に報告した。

その報告を聞くと、洪判書も驚愕して言った。

「吉童が昨晩、私の元に来て辛そうに暇乞いをしたが、この様な事があったのか。一体、吉童の命を奪おうとした者は誰なのか?」

吉童の兄・仁珩は畏れ多くて隠してはおけないと思い事実のままを話した。

「すべては梢蘭が企んだ事です、前に屋敷に来た観相家と組んで・・・・」

「その様な愚かな話があるか?すぐに梢蘭をこの屋敷から追い出し、再びこの家の周りをうろつくこともするなと伝えろ!」

洪判書の怒りは凄まじかった。

「死に値する罪を犯しました、大監さま!どうか一度だけお許し下さい。」

梢蘭が地に跪いて両手をついて懇願した。

しかし、洪判書は聞こうとはしなかった。

「何をしている!この性悪女が、さっさと出ていけ!」

下人たちが梢蘭を無理やり引っ張りだすと、洪判書は老僕を呼び観相家と特栽の死体の片付けを指示すると共に、この話を決して屋敷の外に口外しない様に念を押した。

5.活貧党(ファルビンダング) – 활빈당 –

父母と離別し屋敷を出た吉童(キルドング)は歩いては、また歩いた。

一つの処に留まることなく唯ひたすら歩き続けた。そんなある日、ある処に行き着くが其処はとても景色が良かった。人家を求めて更に奥へと進んでいくと目の前に大きな岩の絶壁が現れ、その絶壁の真ん中に岩で作られた大きな門があることに気付いた。

〝こんな処になぜ石門があるのか?″

吉童は不思議に思いながら石門に近付いていった。その石門は普通の家の門に比べ2倍以上の大きさであった。

吉童はその石門をゆっくりと押し開けて中に入った。驚いたことにその中は広い原野が広がり、数百軒の家が点在しているのが見えた。

〝おっ!こんな処に人里があったとは″

吉童は四方を見渡しながら、家々が立ち並ぶ方へと更に入って行った。

ちょうど何人かの者が集まり宴会をしているところに出くわした。ところが、そこに居た者たちの眼光は鋭く、立ち居振る舞いはとても凡人のものとは思えなかった。

実は其処は盗賊の巣窟であった。

吉童が彼等を見ていぶかしそうな顔をして見ているのだが、彼等の方も吉童に気が付いた。

その内の一人が吉童の姿を見ると、ただ者ではないと感じてのか、作り笑みを浮かべながら尋ねて来た。

「そちらは何故此処に来たのですか?ここは英雄が集まっているところですが、まだ首領を決めていません。若しあなたに勇猛の才があるのなら、是非私たちに加わって下さい。」

吉童は、この話を聞くとしめたと思いながら軽く礼をして話した。

「私は都の洪判書(ホングパンソ)の微賤な小室(妾の腹)から生まれ、名は吉童という。屋敷で卑賤の扱いを受けるのが嫌で世を渡り歩く内に偶然この地を訪れたが、ここで皆の様な豪傑たちと同僚に成れるとは有り難くて何と言ったら良いか分らない。大丈夫(いっぱしの男)が何であの位の石一つぐらいを物ともしようか?」

吉童は少し先に見える大きな石を指さすと、その石のある所へ歩いて行った。

そして気合を入れる声と共に、その石を持ち上げて数十歩を歩いてみせると、今度はその石を放り投げたのだが、その石は重さが千斤であった。

それを見ていた盗賊たちは揃って称賛した。

「いやぁ!大豪傑だ。我々、千人余りの中であの石を持ち上げる者は一人もいなかったのに、今日、天が我々に将軍をお送り下さった。」

彼等の内の中心に居た二人が吉童の両脇を丁重に抱えながら最も高い首領の席へ座らせた。

「よし!私も特に行く先を決めていた訳ではないから、喜んでそなた達と共に過ごすこととしよう。」

山族たちは吉童に何度も酒を勧め、白馬を引いて来て固く盟約を誓った。

白馬の血を分け合って飲むことは、生涯背くことなく義に依って忠誠を奉げるという誓いの標(しるし)であった。

「我々は今日から生死苦楽を共にすることとなった。万一、この誓いに背いたり命令に従わなかったりする者は、軍法に照らして厳しく処せられる筈だ。」

吉童の言葉に一同が同時に承諾の意思を表すと、その後は終日の大宴会となり共に楽しく語り合うのだった。

こうして、思いも依らぬことから山族の首領となった吉童は翌日から組織を新たに整備することを始めた。何人かに分けて組を作ると、組ごとに長を決め体系的に訓練し武芸を磨かせた。更に戦略や戦術なども教えると、数ヵ月後には何処へ出しても負けることが無さそうな軍団に変貌していた。

ある日、何人かが吉童を訪ねて次の様に話すのだった。

「我々は以前より海印寺(ヘインサ=慶尚北道にある朝鮮有数の名刹の一つ)を襲って財宝を奪おうと考えていましたが知略が及ばず果たせずに居りました。将軍のお考えは如何でしょうか?」

「遠くない内に軍を出動させるので、皆はその指示に従ってほしい。」

吉童は答えると直ちに青い道袍(トポ=両班の外出用の礼服)に黒い革帯をした姿に着替え、驢馬に乗り従者数人を引き連れて現れると、次の様に話した。

「私が直接、海印寺へ行って動静を探って来よう。」

その姿はまるで宰相の家の御曹司の様であった。

 

吉童は海印寺に着くと、先ずこの寺で一番の高僧を訪ねた。

「私は都の洪判書の家の息子だ。この寺に学問をしようとやって来たのだが、白米20俵を送るので後日、一緒に食事をしたいと思うが。」

吉童が話を終えて寺の中を見廻した後、また来るからと言い残して寺を出ると、僧たちは笑みを浮かべて喜んだ。

吉童は砦に戻ると、白米数十俵を海印寺に送った後に部下を集めて告げた。

「私は折を見て海印寺に行ってひと暴れするつもりだ、お前たちも後から来て指示に従ってくれ。」

その日を待って吉童が従者数十人を連れて再び海印寺を訪れると、僧たちは総出で吉童を出迎えた。

吉童は寺に入ると早速、老僧を呼んで尋ねた。

「私が贈った米で足りなくはないか?」

老僧が答えた。

「どうして不足が御座いましょうか?大変有難う御座いました。」

吉童が上座に座り海印寺の全ての僧を一斉に集め膳を共にすることとなった。そして先ず自ら一口酒を飲み、順に盃を勧めると僧たちはこぞって感激した。

食事が始まりしばらく過ぎた時の事だった。

吉童が飯を口に運ぶと、

「飯の中に石が入っていた!」

と声を張り上げた。その声の大きさに僧たちは驚いて互いに顔を見合った。

「これはどういう事だ!」

吉童はわざと大声で咎める様に叫んだ。

「私が我が国の米の中から最高級品を選んでこの寺に贈ったのに、何故そこから出て来る飯がこうなのか?私を見くびっての仕業に違いない。」

僧たちは困り果てた顔で謝罪した。

「大変申し訳ございません。どうか御怒りをお鎮め下さい。」

吉童は立ち上がって怒鳴った。

「良く聞け!この者たちを、このままにしては置けない。今すぐ縛り上げろ!」

その命令でこの時、海印寺に居る全ての僧は吉童の従者たちに縄で縛りあげられてしまい、突然の事態に僧たちは恐れおののいた。

こうして寺の中が混乱している内に、数百人の男達がいっきに寺に押し寄せ寺の財宝を根こそぎ奪って行ってしまった。しばらくしてようやく事態に気付いた僧たちは、只々大声を上げるだけであった。

「ああ、奴らは山賊であったか、何と口惜しい!必ずやこのままでは・・・」

漸くにして欺かれたことに気付いた時には、すでに遅かった。

この時、寺の炊事番がちょうど外出から戻ったところでこの事態を知り、そのまま役所に被害を届け出た。

「さ、山賊が海印寺を襲撃して財宝を全て奪い去りました。」

「山賊が海印寺の財宝を持ち去っただと?何と言う事だ!おい!すぐに官軍を出動させ山族を捕まえる様に指示しろ!」

土地の長官が命令を下した。この命令により数百人の官軍が山族を捕まえようと海印寺周辺に向かった。

その時だった。ふと、辺りを見廻すと僧の頭巾をかぶり僧衣を身にまとった一人の僧が山の高台から大声で叫んだ。

「盗賊が向こうの北側の小道へ向かったぞ!早く追い掛けて捕まえてくれ!」

官軍は、その僧の言葉に従い盗賊が向かったという北側の小道へと急いだ。しかし、官軍が何日掛けても盗賊に出会う事無く、そのまま戻ることとなった。

吉童が部下の盗賊の全員を南側の大道へと向かわせた上で、自分だけは只一人で残って僧の姿に変装し官軍を北側の小道に誘い送ったのだった。そうして無事に盗賊の砦に戻って見ると、其処には既に海印寺の財宝が並べられていた。

「丈夫がこの位の才能が無くてどうして人の上に立てようか。」

と自信たっぷりに話すのだった。

その後、吉童は組織を改めて整備すると自分たちを「活貧党」(ファルビンダング)と名乗った。活貧党は朝鮮全土を渡り歩きながら、不正・不浄の役人がいると聞けばこれを懲らしめ、役人が不当に金品を搾取したと聞けば、これを奪って貧しい人々に分け与えた。また、善良な庶民を襲う事は決して無く、国の財産を奪うこともしなかった。こうした話が朝鮮中に広がると、別の盗賊達の中からも活貧党を真似る者たちが出たりした。

ある日、吉童は部下たちを集めて相談を始めた。

“聞くところによると咸鏡道(ハムギョンド=朝鮮北東部)の監使は貪官汚吏(タムグァンオリ=不正役人)で庶民の物を不当に奪い取るので、庶民たちは我慢の限界にきているという。そこでお前たちは私の指示通りにしてほしい。”

すると、部下たちをバラバラに咸鏡道に入る様に指示すると、後日の決められた日の夜に集まる様に指示した。

その日が来ると、まず当地の城の南門の門外に火を付けさせた。

「おい、これはどうした事だ。早く火を消せ、早く。」

南門の方で煙が出ているのに気づいた咸鏡監使が驚いて大声を出した。すぐに多くの役人達と庶民たちが南門へ走って行き火を消そうとした。

「今だ!」

この混乱に乗じて、吉童が率いる数百の盗賊たちが一斉に城内へと走り込んだ。盗賊たちは監営(役所の建物)から穀物と軍需品を奪うと瞬く間に北門のから出て行ってしまうが、何が起こったのかも分からないまま城内は水がめをひっくり返したような騒ぎとなった。

やっとのことで火を消し止めて安堵の息をついた咸鏡監使は翌日、陽が昇る頃になって大いに驚くこととなった。監営に保管していた軍需品と穀物が空になっていた為だった。

「一体どんな奴らの仕業だ。早く追い掛けて捕まえて来い!」

咸鏡監使が怒りに任せて騒ぎ立てたが、そうこうしている間に北門にいつの間にか張り紙が貼られているのに気付いた。

 

『咸鏡監使の監営から軍需品と穀物を奪って行った活貧党の首領の洪吉童(ホングギルドング)だ。

咸鏡監使は武器と穀物が奪われた事で我々を捕まえようとするだろうが、捕まえられないと悟ると、その時は罪のない者を捕まえようとするだろう。何の関わりも無い庶民に災いを及ぼそうとするなら、必ず天罰が下されるだろう。』

これは吉童が貼ったものだった。

この貼り紙を見て咸鏡監使は怒りを抑えられずにわめき散らした。

「何だと?洪吉童?活貧党?おいっ!奴ら、まだ遠くまで行っていない筈だ。さっさと追いかけて捕まえて来い!」

しかし、この時すでに活貧党は一つの痕跡も残さず消え去った後であった。

6.御命 – 오명 –

咸鏡(ハムギョング)の北門に立て札を立てて戻りながら吉童(キルドング)は、若しかすると自分が捕らえられるかも知れないと考え、念の為に遁甲術と縮地術(地面の気を縮小させて遠距離を瞬時に移動する術)を使って砦に戻ると、活貧党(ファルビンダング)の盗賊たちは競う様に吉童を称賛した。

そうしたある日のこと、吉童は部下たちを集めて話した。

「今や我々が海印寺(ヘインサ)で財宝を奪った事も、咸鏡監営で穀物を盗んだ事も噂になっている。また、私が自分の名前を書いて監営に貼り付けて来たので遠くない内に捕まるかも知れない。皆、私の才をとくと見るが良い。」

そこまで言うとすぐに藁を持ち出して7個の人形を作り、呪文を唱え霊魂を注いだ。7個の人形は一瞬の内に7人の吉童へと変わり、同時に手足をバタつかせたかと思うと、今度は一処に集まりふざけ合った。部下たちは誰が本当の吉童なのか全く分からなかった。

「こんなことが・・・」

「どうすればあの様に同じに?誰が本物なのか分らない!」

横で見ていた部下たちは驚いて目を丸くした。

「じゃ、皆こちらに集まれ。」

本物の吉童が命じると、偽の吉童たちが皆ひと処に集まった。

「今、国中に私を捕まえようと立て札が貼り出されている。従ってこれからはお前たちが私の代わりに各地に一人ずつ散らばって活動する様にしろ。不正に金品を集め庶民を困らせる役人を懲らしめ、けっして貧しい庶民の金や物を奪ってはならない。」

「はいっ!」

偽の吉童たちは短く答えると、次々と天に昇るかのように何処かへと消えて行った。部下たちは何が起きたのか理解できず、口を開けたまま偽の吉童たちが消えて行った空を見つめていた。

「この地はもはや狭くて我々が活動するのに適当ではない。聞慶(ムンギョング=慶尚北道)へ場所を移して新たに活動を始めよう。」

吉童は部下たちを率いて聞慶へと移って行った。

偽の吉童たちは全国に散らばると、各々が数百人の集団を率いて現れ本物の吉童が何処に居るのか誰もわからなかった。

8人の吉童が全国に現れては、風を吹かせ、雨を降らせるなどの様々な術法を使うと、各村の役所の倉庫からは穀物が一晩の間に無くなり、都に向かう奉物は度々奪われた。

この為、全国の役所は慌てて倉庫を守る兵士の数を厚くし昼夜の別なく警護に当たらせた。しかし吉童が一度動けば、雨が降り、風が強く吹き、雲や霧が深く掛かって天地の区別がつかぬ程となり、軍士たちが守れる筈はなくただ手をこまねいている以外に方法が無かった。

こうして全国を廻っては乱を起こした後は“活貧党・洪吉童”と書き残して行くのだが、それ以上は全く手掛かりが掴めなかった。取り締まる役人達はいつ何処に吉童が現れるのか分らず、一時も気を休める事が出来なかった。

 

神出鬼没の吉童という盗賊がいて、思いのままに風と雲を操って村々の金品を奪い、地方から都に送った物が届かない事態が無数に多くなっています。今、この盗賊を捕まえる事が出来なければ、今後どのような事態になるか図り知れません。伏してお願い申し上げます、捕盗庁(ポドチョング)の役人を派遣してこの者を捕まえて下さい。

この様な要請が全国各地から王のもとへ上奏された。盗賊の名前は何処からのものも洪吉童だと言うのだが、良く見ると奪われた日も時も皆同じであった。

王はこれを見て驚き、左右の捕盗大将を呼んだ。

「この盗賊の勇猛さと術法は、昔の中国・斉の軍神と言われた蚩尤(チウ)でも敵わないかも知れない。どんなに不思議な才を持った者だとしても全国で同じ日、同じ時間に盗みを働く事が出来ようか。これは只の盗賊ではない。捕まえるのは難しいだろうが、左右の捕盗大将は力を合わせて捕盗庁を総動員して必ず捕まえる様にしろ。御命(オミョング=王の命令)である。」

この時の捕盗庁の右大将の李翕(イフップ)が王に上奏した。

「臣はおよそ才の無い者ではありますが、必ずその盗賊を捕まえて参りますので殿下はご心配なさらないでください。今どうして捕盗大将二人が揃って出て行く必要がありましょうか?」

「わかった。それなら、お前はすぐに盗賊を捕まえ、これ以上は国に憂いが及ばない様にしろ。」

王が急いで出発する様に命じると、李翕はすぐに兵士を召集した。

「今、洪吉童は聞慶に居るという。お前たちは農夫に変装して聞慶に入れ。」

各々が別々に出て日を決めて聞慶で落ち合うことを指示すると、李翕も軍服から平常服に着替えて聞慶へと向かった。

陽が暮れて、その日の酒幕(チュマク=旅籠)を決めた李翕は庭先の板の間に腰かけ、吉童を捕まえる為の軍略を練っていた。その時、一人の少年が驢馬に乗って入って来た。少年が軽く会釈をすると李翕もこれに答えた。すると少年は驢馬を庭先に繋いで李翕に近付いてきた。

「どちらに行かれるのですか?」

少年が尋ねた。

「聞慶まで行く途中だ。」

「聞慶といえば山も水も良い所ですね。でも、今時そんなに良い所で何をされるのですか?国は落ち着かず民心は揺れているというのに・・・」

少年が独り言のように呟きながら李翕の反応を覗った。そうしながら、一つため息をついて言葉を続けた。

「この国の全ての天地が王の土地で無い所は無く、全ての民が臣下で無い者は無いと言いますのに。小生も例え田舎で埋もれていようとも、常に国の事を気に掛けております。」

その言葉に李翕は殊更に驚いたように声を掛けた。

「それはどういう事だ。」

少年が答えた。

「今、洪吉童という盗賊が全国を渡り歩いて悪さをしているお蔭で人心が騒がしくなっていますのに、奴を捕まえる事が出来ないことに、どうして怒りを感じずに居られるでしょうか?」

李翕はこの言葉を聞いて大きくうなずいた。

「実は私も今、その者を捕まえようと来たところだ。君は気骨があって言葉が正直だ。私と一緒にその盗賊を捕まえるのはどうだろうか?」

少年が答えた。

「それは良かった。私は前から捕まえたいと思っていたのですが勇猛で才のある仲間が見つからずに躊躇していた所でした。あなたの様な方にお会いできて本当に良かったです。でも、あなたの才を知らないのに私がどうして従って行けましょうか?静かな所へ行って才を見せて下さい。そうして頂ければ私の才もお見せしましょう。」

「そんな事は難しい事ではない。」

「でしたら私について来て下さい。」

少年が先に立って酒幕の外へ出て行った。李翕は一つ咳払いをするとその後に従った。

暫らく行くと少年が高い岩の前に立ち止まると振り返って李翕を見た。

「思い切り私を蹴り飛ばして下さい。」

少年が逃げ場のない崖の前に立って言い放った。

その言葉を聞いて李翕は考えた。

〝こいつにどれだけ勇猛の才があると言うのだ、私が一蹴りすれば崖から落ちてしまうだろう″

そうするや思い切り蹴りかかった。すると少年は軽々と蹴りをかわして、改めて李翕の前に座り直しすと話した。

「あなたは本当に壮士ですね。私は何人かと同じことをしましたが、私を座り直させる者はいませんでした。あなたの才に感服しました。私が洪吉童の居るところを知っていますので私に付いて来て下さい。吉童を捕まえる事が出来る筈です。」

「こんな夜中に行くのか?」

「聞くところに依れば洪吉童は東に行ったかと思えば、西に行き、ひと処に居ないと聞きました。一時でも早く奴を捕まえなければ成らないのではないですか?また、昼は人目について彼等の砦に近付くには夜の方が良いです。」

少年は、うっそうとした茂みをかき分けながら話した。優しい声なのだが、その声には拒否することが出来ない力を感じさせた。

李翕は山中を奥へ奥へと入って行く少年の後ろ姿を見ながら思った。

〝私もそれなりの才を見せたが、あの少年の才には驚かされた。あの少年一人でも充分に吉童を捕らえる事が出来る筈だ。″

そしてまた、少年の後に続いた。

7.対決 – 대결 –

どれだけ行っただろうか、少年が大きな岩の前で急に振り返った。

「ここが洪吉童の砦です。私が先に行って探索しますから、此処でしばらくお待ちください。ここぞという時には奴を捕まえてこようと思いますが、貴方の力が必要な時には助けを請うつもりです。」

「良いだろう、早く行って見なさい。」

李翕(イフップ)は咄嗟に少しばかりの疑念が浮かんだが、言われた通りに待つ事にして岩に腰を下ろした。

少年は岩と岩の間の細い道を入って行った。

だが、入って行った少年は暫らく経っても戻って来なかった。

〝おかしいな?今まで何をしていて戻らないのか?″

李翕は首を長くして、少年の入って行った所をわびしく眺めていた。

月もとうに西の山に沈み、星だけが輝いていた。

〝此処までいわれるままに付いて来たのは間違いではなかったのか?あの少年が首尾よく洪吉童を捕まえてくれば良いが、何か欺かれている様な気もするのだが。″

そんなことを思っていた時だった。いきなり山道沿いを数十名の者たちが騒がしく声を上げながら降りて来た。山賊であった。

「動くな!」

「だ、誰だ?」

李翕は慌てて何歩か後ずさりをした。

山賊たちが近付いて李翕を取り囲んだ。

「何の用だ?何故こんな事をする?」

李翕が叫んだ。

「お前が捕盗大将の李翕だと言うのは全て知っている。我々は閻魔大王の命を受けお前を捕らえに来た。」

山賊たちは鉄鎖で李翕の首を縛り上げると風の様に何処かへと連れ去った。捕盗大将は気が抜けた様になっていた。

やがて何処かに着いた様で、また山賊たちが声を上げた。

「さぁ、此処が冥土の入口だ。ひざまずけ!」

李翕は言われる通りにひざまずいた。

気を取り直して辺りを見廻すと、そこは宮殿の様に仕立てられた広間で、黄金色の鉢巻きをした壮士たちが左右に座っていた。更に殿閣の上には、まるで君王の様に人が一人座っていて、荒げた声で李翕に話し掛けた。

「お前はお粗末で取るに足らない才を持って、どうして洪将軍を捕らえられると思ったのか?」

「そ、それは・・・」

李翕は自分でも気付かない内に言葉に詰まり、思い通りに続かなかった。

「嘘を言えばすぐに閻魔大王のもとへ送るぞ!」

李翕は何とか気を取り直して答えた。

「私は人の世では貧しく取るに足らない者ですが、罪も犯さずに過ごしてきました、どうぞお助け下さい。」

こうして哀願すると、殿閣の主が低い笑い声と共に咎めた。

「おい、私を良く見ろ。」

李翕は聞き覚えのある声に驚き顔を上げた。

「私がその活貧党の首領である洪吉童だ。お前が私を捕まえようと言うので、お前にどれだけ勇猛な才があるのか試してやろうと思った訳だ。それで昨日、少年に変装してお前を此処につれて来て私の威厳を見せてやったのだ。」

此処で吉童は部下たちに向かって続けた。

「さぁ、者共!大切なお客様だ。早く縄を解いて差し上げて準備した膳をお持ちしろ。」

部下たちが走り寄って李翕の縄を解いてやると、今度は別の者が酒と料理をのせた膳を運んで来た。

吉童は李翕に自ら酒をついでやり勧めた。

「お前は私を捕まえようなどと、つまらない考えをせずに早く帰れ。どう見ても無理な事だろう。只、口で言っただけでは信じないだろうと思って私の才を少しだけ見せてやったのだ。」

吉童の話を聞くと李翕は素直にうなずいた。それは自身も既に良く認める事実であった。

「我々は単に役人たちを懲らしめてやろうという盗賊ではない。貧しい庶民を救う為に立ち上がったのだ。真心から庶民の為に働こうとする役人をなんで懲らしめるだろうか。だからお前は、これ以上は私を追い廻すな。都に戻って、私を見たと言えば咎めを受けるだろうから決して口外してはならない。」

そう言ってまた酒を勧めると、左右の者に命じて解き放つ様に指示した。

李翕は思った。

〝これは夢なのか?現実なのか?どうやってここに来たのか?″

吉童の話を不思議に思いながらも立ち上がって出ようとすると、急に体が動かなくなってしまった。おかしいと思って気合入れて見ると、自分が革袋の中に居ることに気付いた。

「なんと・・・・」

李翕は身体を動かして何とか腰の刀を抜くと革袋を切った。革が切れる音と共に袋が破れ地面に転げ落ちた。辛うじて外に出て見ると別の革袋が3つ、木に掛かっていた。

「これはまた何だ。」

李翕はこれらの革袋も切り裂いて見た。

そこから出て来たのは一緒に都を出て来た自身の部下達ではないか。

彼等は互いに顔を見合わせて言った。

「これはどうした事か?都を出る時に聞慶で会おうと言ったが、どうしてここに居るのか?」

周囲を良く見ると、そこは都に程近い北岳山(プガクサン)の麓であった。4人があきれ顔で互いを見合うと、李翕が部下たちに聞いた。

「私は、ある少年に欺かれてこの様になったが、お前たちはどうしてここに来たのか?」

3人が言った。

「私たちが酒幕で寝ていると、急に雲がかかって・・・気が付くとここに来ていました。一体何がどうなっているのか分りません。」

「これはとても虚無魍魎な事だ。他の者に口外することはやめよう。吉童の才は図り知れず、如何して人の手で捕まえることが出来るだろうか?我々がこのまま帰れば罪を免れることは難しいだろうから・・・・」

李翕は山の下に広がる景色を見下ろしながらため息を一つ突いた。考える程にはらわたが破れそうであったが、どう仕様も無かった。

「では、どうすれば良いのでしょうか?」

「何ヶ月か後に帰ることとしよう。」

李翕は、そう言うと何処かへと歩き始めた。部下たちは互いに顔を見合せながら、その後に続いた。

8.8人の吉童 - 8명의 길동 –

王は全国の役所に公文を送って吉童を捕らえる様に命じた。しかし、吉童は神出鬼没で捕まえることはなかなか容易でなかった。ある時は『都の大通りを大臣が乗る輿に乗って現れた』と噂され、またある時は前もって村々に公文を送った上で『2頭立ての馬車に乗って表れた』と評判になり、更にある時は御史(オサ=王の命を受けた地方巡察官)に変装して『貪欲で行いの正しくない不正役人を視察して、王にその行いを報告する』〈偽の御史・洪吉童からの〉報告書まで届けられて、王を更に驚かせた。

「王の命も無く自分勝手に役人達を罰するとは不届き者である。また、妖怪や化け物でもないのに、どうして同じ日の同じ時に慶尚道・忠清道・黄海道・全羅道など同時に現れるのか?各地を渡りながら勝手な振る舞いをするのに、誰も捕らえることが出来ないとは、どうしたら良いのか?」

王はその上で三公六卿の高官たちを集めて調べさせると、王のもとに来ている御史の報告書はすべてが洪吉童の送ったものであることが分かった。

王はそれらを繰り返し見ながら大きくため息をついて言った。

「捕盗大将の李翕が大口を叩いて出てから既にひと月が過ぎ様としているのにまだ何の連絡もない。それなのにこの様な報告書が次々と上がって来るとは、一体どういう事だ。」

「恐れ入りまして御座います。」

臣下たちが揃って王に頭を下げた。

「奴は間違いなく人ではなく妖怪か化け物のようだが、私の臣下の中で誰が奴の本性をあばくのか?」

すると一人の高官が前に進み出て言った。

「洪吉童は前の吏曹判書(イジョパンソ)である洪阿無蓋(ホングアムゲ)の庶子で兵曹佐郎(ピョングジョジャラング)の洪仁珩(ホングイニョング)の腹違いの弟です。いま、この二人を捕らえて尋問すれば自然に解かる筈です。」

「何?洪吉童が洪判書の息子で兵曹佐郎の弟だと?」

王の髭がピクっと動いた。

「左様で御座います。」

「それを何で今更言うのか?」

王が怒って声を荒げた。

「恐れ入りまして御座います。」

臣下たちは、再び揃って頭を下げた。

「すぐに父子を捕らえて、洪判書は義禁府(ウィグムブ=重罪人の尋問を担当する役所)へ連れて行き、仁珩は私の前に連れて来い。」

王の命令は少しの遅滞も無く進められた。

王は縄に縛られて入って来た仁珩を見て、腹立たしそうに言った。

「今、各地で役人達を困らせながら国を荒らしている洪吉童が卿の腹違いの弟だと言うのは本当か。」

「左様でございます。」

「そうなら卿の弟の所業も皆わかっていると言うのか!どうして厳しく止めさせること無くそのまま放置して、国に大きな災いをもたらすのか。卿に洪吉童の捕縛を命じる。吉童を捕らえて来れば良し、卿が万一捕まえて来なければ、これまでの父子の朝廷への忠孝も水泡に帰すものと思え。さぁ、速く捕まえて事を解決しろ。」

仁珩は大変に恐縮し床に額ずいた。

「確かに臣には賤しい弟がおります。だいぶ以前に人を殺めて家を出て行き既に何年も経ちます。今、死んでいるのか生きているのかも分からずにいます。私の年老いた父は、これが原因で重い病を受けて〈今日か明日かと〉はかなく過ごしている所でした。吉童が私たちの思いもよらないことで、世に背く行為をしました事を殿下には深くお詫び申し上げます。私の罪は万死に値します。また、伏してお願い申し上げます。どうか殿下のご慈悲を持ちまして小臣の父の罪をお許し頂き、家に帰して養生をさせて頂きましたら、小臣は死を覚悟して吉童を捕らえ小臣たち父子の罪を雪いでお見せします。」

仁珩がはっきりとした言葉で上奏した。

「それは本心か?」

「どなたの前でいい加減な事を申し上げられましょうか?」

「わかった。卿が間違いなく洪吉童を捕らえて来ると言い、更にこの様な状況の中でも父の健康を案じる卿の孝道に免じて、洪判書は許すこととしよう。」

すると直ちに洪判書を解き放ち、続いて仁珩を慶尚監使に任じて更に続けた。

「卿にも、監使の地位と相応の兵力が必要であろう。これを与えるので一年の期間の内に吉童を捕らえて参れ。」

「聖恩(王の恩)の極みであります。」

慇懃に礼をする仁珩の目からは涙がこぼれていた。

こうして洪判書は家に戻り、仁珩はそのまま任地へと向かうのだった。

慶尚監営に到着した仁珩は村々に立て札を立てさせるが、そこには吉童を慰め諭す内容が記されていた。

 

人が世に生まれ出てば五倫が最も重要であり、五倫を知ることによって〈仁義礼智〉が明確にされるが、これを理解することなく王と父の命令に逆らい背く事は不忠であり不孝であり、どうして世の中に受け入れられるだろうか。私の弟・吉童はこの意味を良く知っている筈だから自ら兄を訪ねて来て縛に就け。

 お前のせいで父君は重い病の床にあり、王様は深くお悩みである。その為に私を特別に慶尚監使として遣わされてお前を捕まえる様にされたが、若し捕まえることが出来なければ洪氏一族が代々積み重ねて来た誇りある徳行が、一夜にして水泡に帰することとなる。何と悲しむべき事であろう。

願わくは弟・吉童はこの事を考え、早く自ら現れて罪を償い一族の家門を守らなくてどうするのか。良く考えて早く出て来なさい。

 

慶尚監使・仁珩はこの立て札を各村に貼り出し、私情をすべて捨て去って吉童が自ら現れることだけを待った。

そうしたある日、一人の少年が驢馬に乗って下人を数十人引き連れて監営の門前に来て面会を請うて来た。

仁珩は吉童に間違いないと思った。

「早く呼んで参れ。」

役人が門前に仁珩の言葉を伝えに出る前に、驢馬に乗った少年は既に中へ入って来ていた。

仁珩が目を凝らして良く見ると、果たして待ち焦がれていた吉童であった。

仁珩はおもむろに立ち上がった。

吉童は仁珩の居る部屋に入り恭しく礼をした。

仁珩は大きく驚きながらも嬉しく、左右の者を退出させると吉童の手を握り抱きしめ、泣きながら言った。

「吉童や、如何してお前がこの様になってしまったのか?盗賊の首領などになっているとは・・・・」

そしてもう一度、吉童の肩を抱いた。

吉童の目にも大粒の涙がこぼれ落ちていた。

「申し訳ありません、兄上。」

「お前が家を出てから、生きているのか死んでいるのか知る術も無く、父上は重い病を患われた。お前は時が過ぎる程に罪を重ね、国にも大きな災いとなった。その為に王様は悩まれた末に私にお前を捕らえる様に命じられた、これは避けることの出来ない罪だ。お前はすぐに都へ行き天命を順々と受けろ。」

仁珩が話を終えて涙を拭うと、吉童がうなずきながら言った。

「私が此処に参りましたのは、父上や兄上にこれ以上ご迷惑をおかけしない為であり、他の意図は全く御座いません。何よりも大監(洪判書のこと)さまは賤しい吉童の為に、父を父上と、兄を兄上と呼ぶ様にして下さいました。しかし、事ここに及んで何の意味がありましょうか?」

「それが国の法度であるのなら何ともしようも無いだろう?」

「過ぎた事を言っても仕方ありません。兄上は、この弟を捕縛して都へ送りつけて下さい。」

そこまで言うと吉童は、それ以上は語らなかった。

「私がどうしてお前を捕縛することが出来ようか?」

「何の遠慮も要りません。」

「ああ、これが運命だというなら仕方があるまい。」

仁珩は震える手で吉童の肩を抱いてやった。

仁珩は一方では悲しみつつも、また一方では状啓(ジャンゲ=地方官から王への報告書)を書き送った後は、吉童に首鎖・足鎖を架けて重罪人として都へ護送した。更に護送には健壮な将校十余人を付けて厳重を極め、昼夜を分けずに急ぎ都へ送った。

各村々では人々が吉童の活躍ぶりを耳にしていて、その吉童が捕らえられて護送されて来ると聞きひと目見ようと道を埋め尽くした。ある者が涙を流しながら言った。

「あー、何と言う事だ。俺達には神様の様な人なのに・・・・・」

「そうだとも。洪吉童将軍様のお蔭で俺達は不正役人の搾取や暴力を受けずに済んだのに・・・・」

そうして都に到着すると、洪吉童を護送した隊長が意気揚々と報告した。

「慶尚監営から洪吉童を捕らえて参りました。」

「なに、洪吉童を捕らえて来たと?」

王は驚いて聞き直した。

「そうか、その者の顔でも一度見て見ようか。一体どんな者が国を揺るがす様な所業をしたのか・・・」

捕卒が洪吉童を王の前に引き連れて来た。

その時だった。後方で別の捕卒たちの声が聞こえた。

「忠清道から洪吉童を捕らえて参りました。」

「今しがた慶尚監営から洪吉童を捕らえて来たと言っているのに、また何処の洪吉童を捕らえたというのか?」

王は戸惑った表情で二人の吉童を代わる代わる眺めた。

すると更に次々と各地から吉童が捕らえられて来た。

捕卒たちが捕らえた洪吉童は全部で8人となったが、その姿形は全く瓜二つでそっくりだった。

王が大臣たちを集まっている前で、直接詰問した。

「何と賤しく生意気な奴だ!畏れ多くも誰の前だと思ってふざけた振る舞いをしているのか?本物の洪吉童は今すぐに前に出てひざまずけ!」

すると8人の吉童は互いに先を争って言い合った。

「お前が本物の吉童だろう?俺は違う。」

「違うぞ、お前が本物だろう。」

こうなると誰が本当の吉童なのか、更に見極めが難しくなった。

「この様なふざけたことがあるか?」

と思ったのは王だけではなかった。すぐ横でお前が本物だと言い合う8人の洪吉童を見ていた臣下たちも同様に戸惑った表情を見せた。

暫らく時が過ぎても、誰も本物の洪吉童を見極めることは出来なかった。

「昔から自分の息子を解かる者はその父か母しかいないと言います。洪判書を呼んで本物の洪吉童を当てさせては如何かと思います。」

一人の臣下が言った。

「それなら早く行って洪判書を連れて来い。」

やがて洪判書が呼ばれて来た。

「息子を知るのは父を置いて外に居ないと言う、その8人の中で卿の息子は誰なのか言って見なさい。」

王の命令に従い洪判書は8人の前に出ると順に眺め観た。

しかし目で見る限りでは、とても見極めることが出来ない位に8人の吉童は余りにも良く似ていた。

洪判書は恐縮して頭を床に付けて罪を請うた。

「臣の目では如何しても見極めることが出来ません。しかし、私の賤しい息子の吉童には左の足に赤い痣がありますので、それを見ればわかる筈です。」

「それならすぐに服を脱がせて調べて見ろ。」

王が命じると、捕卒たちが8人の吉童に走り寄った。

その姿を見て洪判書が8人の吉童を咎めた。

「お前がどんなに不忠不孝の者であっても陛下の御前であり、その臣である父を前にして、罪は死を免れないと観念して正直に申し出ろ。万一その様にしないなら、お前の眼の前で先に父が死んで陛下のご心痛を万分の一でもお慰めせねばなるまい。」

すると最後には血は吐いて気絶してしまった。

王は驚いて宮中の医師を呼んで救おうとしたが手の施し様がなかった。

「父上・・・」

8人の吉童がこの光景を見て同時に涙を流すと懐から次々と丸い薬を一つずつ取り出すと洪判書の口に含ませた。

すると効果があったのか、洪判書は暫らくすると気が付いた。

「吉童よ、これ以上は王のお心を悩ませることをせずに本当のお前の姿をお見せするのだ。さぁ、早く・・・」

洪判書が哀願する様に言った。その眼には涙が溢れていた。

吉童が王へ奏上した。

「臣の父は国の恩恵を多く受けましたのに、如何して私が畏れ多くも悪事を働くでしょうか。臣は本来が賤しい庶子ではあり、父を父だと呼べず、兄を兄だと呼べずに世を恨めしく思っていました。それで家を捨てて盗賊の群れに入りましたが貧しい人々の財産は塵一つも奪うこと無く、土地の領主たちが庶民から搾り取った財産だけを奪いました。しかし、もうそれも十年に成り、朝鮮の地を離れて行きたい思う処が御座います。伏してお願い申します、殿下におかれましては心配なさらずに臣を捕らえろという命令をお取り下げ下さい。」

そこまで言うと8人の吉童が同時に倒れた。

「な、何だ、これは・・・」

横で見ていた人々は身を丸くした。

倒れた8人に吉童を良く見ると、8人共に藁で作った人形であった。

「すると私は今まで案山子を前に、この混乱に陥っていたのか?こんな怪しからん事があるか!

王は更に怒って吉童を捕らえろと改めて全国に命じた。

9.兵曹判書となる – 병조판서가 되다 –

藁人形と共に宮殿を抜け出した後、吉童(キルドング)は都の方々を移り住みながら、都の東大門、西大門、南大門そして光化門の各大門の脇に次の様に張り付けた。

 

妖しい臣下・洪吉童は如何しても捕えられませんが、吉童に兵曹判書(ピョングジョパンソ)に任じるとの教旨(辞令)を下せば、捕らえることが出来るでしょう。

 

「こんな厚かましい奴がいるか?捕盗庁では何をしているからこんな奴一人捕えられずに国中を騒がしくさせているのか?今すぐ捕えて来い。」

王は貼り札の内容を見て大いに怒った。

それでも吉童は捕まらなかった。捕盗庁では捕卒たちを更に増やして吉童を捕まえようと力を尽くしたが、やはり同じであった。却って各地からより多くの不正役人たちが吉童に懲らしめられたと言う報告が上げられるだけだった。

王は再び臣下たちを集めて言った。

「洪吉童が兵曹判書に任じるならば、自ら進んで捕らえられると言っているが、どうしたら良いだろうか?」

何人かの臣下が言った。

「盗賊を捕らえようとしても捕らえられず、却って兵曹判書に任じる事は恥ずべきことで隣国にも顔向け出来ない事です。」

「卿等の意見がそうであるなら止むを得ない。慶尚監使・洪仁珩(ホングイニョング)に洪吉童をもう一度捕らえる様に伝えろ。もしも、ひと月以内に洪吉童を捕まえることが出来なければ、洪判書を始め皆が大きな罰を受ける事となるだろうと・・・・」

慶尚監使は厳重な命令を受けて驚き如何したら良いのか解からなかった。

東で現れたかと思えば西に現れる吉童を何処でどの様に捕らえろと言うのか。加えて前に一度捕らえた吉童が、実は藁で作られた偽吉童であったことに仁珩(イニョング)は天地が引っ繰り返る程に衝撃を受けていた。

〝怪しからん奴、王様と父上そして私をどうしてあの様にまんまと騙したと言うのか。″

それ以来、寝ても覚めても吉童を捕らえることだけを考えるのだが、これといった妙案を思いつく訳でも無かった。

そうしたある日のことだった。

吉童が空を飛んで仁珩の前に現れ礼をしたのだった。

「兄上!本当に申し訳ないことになりました。私の為に父上と兄上のご苦労が一つや二つで無いことを知りながら・・・・」

「お前は本当に吉童か?」

仁珩が信じられない様子で尋ねた。

「そうです。その節は申し訳ありませんでした。あの時も兄上と父上が私の為にご苦労されたと聞いて、あの様に致しました。あの様にすれば王様も私の話をお聞き届け下さると思ったのです。この弟が今度は本当の吉童ですから兄上は遠慮される事無く私を捕らえて都へ送って下さい。」

仁珩はそこまで話を聞くと吉童の手を優しく握って涙を流した。

「お前と私は兄弟同志だ。しかし父上と、この兄の教えに従わないことはこの上ない寂しい事であった。お前がこうして私の処に自ら捕らえられようと来たのは実に健気な事だ。」

「兄上、私の事は少しも心配されないで速く捕縛してお送り下さい。」

吉童が言った。

「すまない、吉童。それでは・・・・」

仁珩は捕卒を呼ぶと吉童の四肢をしっかりと縛り付けると罪人を護送する車に乗せる様に指示した。

「苦労だとは思うが我慢して罪を償い、新しく生まれ変わってくれ。」

健壮な将兵たち数十名が吉童を乗せた車を鉄桶の様に衛って、風の様に急ぎ都へと向かったが吉童の顔色は少しも変わらなかった。

吉童を乗せた車が数日後に都に到着した。

「今度こそ間違いなく本物の洪吉童なのか?」

宮殿では王を始め多くの臣下たちが出て引き立てられて来るのを待っていた。

ところが宮殿の門に車が着いた時だった。吉童が一度軽く身体を揺すると、吉童を縛っていた鎖が切れて車が壊れた。すると吉童はまるで蛇が脱皮して殻から抜け出る様な素振りをした後、軽やかに飛び跳ねるとその身は宮殿を越えて風の様に雲のかなたへ消えて行った。

この一瞬の光景に宮殿の将兵たちは信じられないといった様子で口を開けたまま空だけを見上げていた。

そして、仕方なく王へ事実のままを上奏した。

「洪吉童を逃げられました。死をお与えください。」

王は事情を聴いてため息をついた。

「何故この様な事が何度も起きるのか?」

王が大きく嘆くと、多くの臣下の中から一人が出て上奏した。

「洪吉童の願いである兵曹判書に任じて、その上で朝鮮から出て行く事とされては如何でしょうか。自分の願いが叶えば自ら謝意を述べに出て来ますでしょうから、その時を待って捕まえるのが良いかと思います。」

王はこの進言を聞き入れ、洪吉童を兵曹判書に任じる旨の立て札を各門に貼り出させた。

〝そうであろう。″

立て札を見た洪吉童は直ちに紗帽冠帯に犀帯の礼服に着替えた。そして高官が乗る輿に乗って堂々と宮殿に入った。

「洪判書が王様にご挨拶に参った。」

吉童が言うと、兵曹の下級官吏たちの出迎えを受けると宮殿の中に入って行った。この様子を見て何人かの大臣たちが言った。

「吉童が挨拶に来たと言うから、武装した軍士を待ち伏せさえて出て来たところを一気に襲って殺してしまえ。」

この様に決めておいて吉童が出て来るのを待った。

吉童は王の前に出ると恭順に礼をして上奏した。

「臣、洪吉童が王へご挨拶に参りました。」

「私はお前の才を嘉(よし)として、新たに兵曹判書を任じよう。くれぐれも職分を全うして力を発揮してほしい。」

「私の犯した罪がとても重いのにも拘わらず、こうしてお許し頂き高い官職にまで賜り、この御恩は海よりも深いものです。生涯の願いを叶えて頂き、臣にはこれ以上望むものがありません。従いましてこの地を永遠に出て行きますので、殿下におかれましてはどうぞ萬寿無彊でお過ごし下さい。」

吉童の言葉に王はとても驚いた様であった。

「出て行くとは、何処へ行こうと言うのか?」

「既に考えている処があります。これからは絶対に殿下の御心を乱す様な事はありませんのでどうかご安心ください。」

話を終えて吉童が身体を空中に浮かべて雲間に消えて行くと何処へ向かったのか解からなかった。

王がこれを見て却って口惜しそうに話した。

「吉童の不思議な才は古今を通して聞いた事も無い。自分の口から朝鮮を出る、二度と面倒は掛けないと言ったが、疑う必要も無いのではないか。丈夫の快い言葉を信じて心配はしなくて良さそうだ。」

そして全国に命じて吉童を追うことを止めさせた。

 

吉童が自分の砦に戻ると、部下たちはもろ手を挙げて喜んだ。吉童も同様に手を挙げて彼等に答えながらゆっくりと雲から降りて来た。

「私がこの度、殿下の御恩を被り兵曹判書に任じられたが本心からその様な官職を望んだ訳ではない。それで殿下に幾つか丁重にお願いをして来た所だ。」

吉童は砦の広場に集まった部下たちに向かい、大きくはっきりとした声で話を続けた。

「私は言って来る処があるから、お前達は何処へも行かずに私の帰りを待て。」

「どちらへお出かけですか?」

部下たちは驚き目を丸くした。

「何処へ行くかはまだ決めていない。今から何処へ行くのが良いか捜しに出て、また戻って来よう。」

すると吉童はすぐに身体を浮かせると空中へ飛び上がり雲に乗った。吉童の乗った雲は西の方角へ向かった様であった。

吉童は以前から心の中で思い描いていた処を捜して飛び続けた。

中国の南京へと向かいながらある処が目に止まった。空中から見ても思っていた通りの村の様であった。絹を敷いた様な河が広い大地を潤おす様に流れ、刺繍を施した様な綺麗な山裾には暖かそうな家々が寄り添っていた。

〝あの様な処が良いだろう。降りて見よう。″

心を決めた吉童は下へ降りて行った。

そこは栗島国と言った。四方を良く眺め見ると山河は澄んで美しく、身体を平安に休める事の出来る処だと感じられた。

南京に入って町を見物し、また済島という島に行き五峯山という山に登り眺めて見ると、そこには素晴らしい眺望が広がり、周囲が七百里余りで、野には肥沃な田畑が広大で日々の暮らしに申し分のない処と思えた。

〝既に朝鮮を出ることを決めているが、暫らくこの地に留まり今後の大事を練ることとしよう。すぐに部下達を連れて来よう。″

そして吉童は再び雲に乗って部下達の待つ砦へと帰って行った。

「中国の南方に我々が暮らすのにとても良い島がある。我々はこれから其処へ向かう。その為には多少の準備が必要だ。其処が島国である為に船に乗らなければ行くことが出来ない。依って今から我々皆が乗って行くことが出来る船を五隻作ろう。」

その後、数カ月の間は砦中が船作りに奔走した。皆が熱心に動いたお蔭で五ヶ月程が過ぎると、ついに彼等が乗る船五隻が完成した。

吉童が部下達へ叫んだ。

「お前たちは日を決めてこの船を漢江へ運べ。私は殿下に請うて上等米・一千石を貰い受けて来るから準備を怠るな。」

そう言うと吉童はまた雲に乗って都へと向かった。

父・洪判書は、吉童のことでの気がかりが無くなると自然に病が快方へと向かった。洪判書と同様に王も悩み事なく過ごしていた。

九月の満月の日、王が月見をしようと庭を散歩していると、にわかに一筋の爽やかな風が吹き空中から澄んだ笛の音が聞こえて来た。

〝誰が吹く笛なのか、なんと切ないのだろうか?″

王は笛の聞こえる方へ首を傾けた。

するとその瞬間、空から一人の少年が降りて来ると王の前にひれ伏した。

王は驚いて訊ねた。

「仙人童子がこの世に下りて来て何をしようとするのか。」

少年が王の前にひざまずくと丁重に礼をして上奏した。

臣は前任判書の洪吉童で御座います。

王は大変驚き後ろへ後ずさりしそうになる程であった。

「お前は何故こんな遅くに来るのか?まだ、この国に居たのか?」

吉童が答えた。

「恐縮至極で御座います。臣はもはや本当にこの国を去る決心をし、その前に最後のご挨拶をさせて頂こうと参りました。臣は以前より、陛下の御威光を受け永遠にお仕えすることを望んでおりましたが、賤しい身分の母から生まれた庶子である為に、科挙の文科に合格しても官職への道を閉ざされ、武科に合格しても昇進の道が閉ざされていました。全国を飛び廻って公館を煩わし、朝廷に罪を犯しましたのはこうした事実を陛下へお伝えしたかったからです。それを陛下が、臣を兵曹判書に任じて願いを叶えて下さいました。私は此処でお暇乞いをして朝鮮の地を離れる所存です。どうぞ萬寿無彊でお過ごし下さいませ。」

「行く先は決めたのか?」

王が尋ねた。

「中国の南方にある済島という島へ行こうと思います。畏れ多く厚かましい事では御座いますが、私たちが彼の地へ行き安定した生活が出来るようになるまでの米・一千石を頂きたくお願い申し上げます。」

「必要ならばやろう。」

王は快く承諾した。

「大変有難うございます。来月の満月の日に私達の船が漢江の渡しに着く事になっています。それまでにお下し頂きましたら積んで参ります。」

そう言うと吉童は空に舞い上がり風の様に消えて行ったが、王はその吉童の才をいつまでも忘れることが出来なかった。

それ以来、吉童が王の前に姿を現す事は無く、また世に弊害を及ぼす事も無かった。

10.茫蕩山の妖怪たち – 망탕산의 요괴들 –

吉童(キルドング)は部下たちを引き連れて朝鮮を出て南京の地、済島の島へ入った。彼等は海岸から遠くない場所に居を構えることを決めた。

「今から我々が住む家を建てろ。」

吉童の命令に従い部下たちは直ちに家を建て始めた。そして、ふた月余りが過ぎると村が一つ出来あがった。

「住む家が建ったので、これからは米作りに適した土地を探せ。この地では米作りをするものが主人だ。」

皆、熱心に土地を探し、米作りを始めた。土地が肥沃な上に皆が玉の様な汗を流したお蔭で倉庫という倉庫が穀物でいっぱいになった。

「食べる心配が無くなったと有頂天にはなれない。万一の事態に備えて武芸を磨き武器の手入れも怠るな。」

吉童の指示は休むことなく続き実行に移された。

部下たちは幾つかの組に分かれ、武芸を磨き武器を作り、その手入れを怠らなかった。

こうして三年が過ぎた頃には武器や食料は充分で兵士は強力で、襲ってくる者など無くなっていた。

ある日、吉童は弓矢の矢先に塗る薬を手に入れようと茫蕩山(マングタングサン)へ向かった。

吉童は少しの力で敵を倒すことが出来る方法は毒矢を作る事だと考えた。毒矢は毒性の強い木の根を使って作るが毒を持つ木の根が茫蕩山に多かった。

「私たちもお供いたします。」

吉童の計画を知った副将たちが申し出て来た。

「私一人ですぐに行って帰って来るから心配するな。」

吉童はそう話すと雲に乗って出発した。

 

茫蕩山近くの楽天という村に白龍という金持ちが住んでいた。

白龍には息子がおらず、娘が一人いた。その娘は容貌が誰にも劣るところが無い程に美しく、身のこなしはてきぱきとしていた。その美しい姿には月も顔を赤らめ花も恥ずかしさのあまり首をうな垂れる程であった。その上に女として兼ね備え無ければならない作法なども全て身に付けていて、言葉ひとつも礼節に合わないものが無かった。

白龍夫婦は大切に育て愛する娘の為に以前から立派な婿の候補を探していたが、娘が18歳の時に強い風が吹くと娘をさらって行ってしまった。

白龍夫婦は悲しみ、大金を出して四方八方手を尽くして探したがついに消息はつかめなかった。

すると、白龍夫婦は次の様に吹聴した。

「何処の誰でも構わないから私の娘を探してくれたら、財産の半分を分け与えた上で婿に迎えるだろう。」

吉童はこの話を聞いて内心では《自らの才を見せる機会が来たと》喜んだのだが、茫蕩山に行き薬草を手に入れる事を優先しなければならず、すぐには手を着けることが出来なかった。

薬草を探そうと山の中に入り無心に歩き回るうちに、いつの間にか日が暮れていた。

〝何処か眠れるような所は無いか?この深い山中に人が住んでいるとは思えないし、どこか洞窟でもないだろうか?″

暗い中で行く手を探っていると、いきなり人の声が聞こえ明るい灯火も見えて来た。

〝まだ死ねということではないらしい。″

吉童は人家があると思われる灯火のある方へ向かったが、行って見ると人家はなく数百の者たちが大騒ぎをしていた。更に近付いて良く見ると人の格好はしているが、実は人ではなく獣たちであった。

〝おっ!これは・・・″

元々この獣は鬱同と言ったが、年を経る程に次々と姿を変えていった。

吉童が身を隠しながら矢を打つと親玉と思われる一頭に当った。

「うっ!」

親玉は両手で胸を抑えてその場に倒れ込んだ。すると獣たちは揃って声を上げると、親玉を両脇に抱えて逃げだした。吉童は追いかけようとしたが夜も遅かったので、隣にあった大木に寄り掛って夜を明かした。

次の日、吉童は再び薬草を求めて山の奥深くを捜し廻った。しばらくの後、忙しなく薬草を捜し求めていたが、ふと背後に気配を感じた。

吉童がすかさず振り返ると、背後には怪物が数頭いて吉童に尋ねて来た。

「お前は何故この様な山奥に来たのか?」

吉童は素早く廻り込んだ。

「私は向こうの山の裾に住むものだが、この山に良い薬草があると聞いて採りに来た。」

怪物たちは喜んだ様子で言った。

「我々は此処に永く住んでいて、我々の王が新たに妃を迎えることとなった。ところが昨晩、宴をしていると天から飛んで来た矢が王に当たり困っている。あなたが名医で仙人の薬を持って我々の王の身体を治してくれるなら、沢山の賞金を受けることが出来るだろう。」

吉童は考えた。

〝その王というのは昨日怪我をした者に違いない。″

そして吉童は言った。

「一度見て見ましょう。私は元々が弓矢や刀で受けた傷を治すのが専門です。」

「それは本当に良かった。では、行きましょう。助けてさえくだされば、我々の王からたっぷりと謝礼を受け取られるでしょう。」

怪物たちは先に立って吉童を案内した。

やがて広い土地に大きな瓦葺きの家が見えて来た。

「しばらく、こちらでお待ち下さい。」

怪物たちは吉童を家の前に待たせて中へ入って行った。

少し後に吉童が呼ばれて入って見ると家の中は綺麗に彩られて広かったが、そこに凶悪の輩が息絶え絶えに横たわっていた。

そして、吉童を見ると身体を弱々しく動かして言った。

「私は偶然に天から降って来た災いを被り身体を危うくしている。部下から話を聞いて貴方にお願いをしたが、これは私を助けようとする天の思し召しだと思う。どうか最善を尽くしてほしい。」

吉童は挨拶をして続けた。

「先ず体内を治す薬を使い、次に外傷を治す薬を使うのが良いでしょう。」

親玉が承諾すると、吉童は薬袋から毒薬を出すとお湯に溶かして差し出した。

「薬が少し苦いかも知れないが、我慢してぐっと飲んで下さい。すぐに良くなるでしょう。」

「有り難い。」

親玉は吉童が差し出した薬鉢を受け取ると、一息に飲み干した。

「うっ、ううっ・・・」

薬を飲んだ親玉はその場に血を吐いて息絶えてしまった。

「貴様!我々の王を殺したな!」

其処に居たすべての妖怪が一度に吉童を取り巻いた。吉童は神通力を使ってそれらの妖怪を相手にした。妖怪たちはあらゆる獣や人、怪物の姿となり襲ってきたが吉童の才に対抗することは出来なかった。

ようやく妖怪たちを全て倒して見ると、やおら二人の娘が泣きながら訴えた。

「私たちは妖怪ではなく、人間社会から連れて来られたのです。どうぞお救い頂き家に返して下さい。」

吉童は咄嗟に白龍の家のことを思い出し尋ねて見た。

「何時、何処で捕らえられた。」

「私は元々楽天という村に住んでいました。ある晩に強い風が村を襲うと私は空中に飛ばされてしまいました。暫らく気を失っていましたが、気が付くと此処に連れて来られておりました。」

一人の娘が話した。

彼女こそ白龍の娘であった。

「私も楽天村に住んでいた趙鐵と言う者の娘です。朝、水を汲みに出て水桶を持ったまま風に煽られ、此処まで連れて来られました。」

もう一人の娘が言った。

「さぁ、ここでこうしている時ではありません。御両親が心配されているでしょうから、速く行きましょう。」

吉童は二人の娘を連れて山を下った。

二人の家では死んだとばかり思っていた、愛する娘が見つかり喜びの涙を流して吉童に感謝した。

「この御恩をどの様にお返しすれば。もう死んでも構いません。」

二人の両親は大金を出して大宴会を催して村中の人を集め、更には吉童を娘の婿にすると決めた。最初の夫人は白小姐で、二番目の夫人は趙小姐だった。

吉童は一日にして二人の妻を迎え、二人の家族と共に済島に戻ると、これを聞いた部下たちは皆喜んで出迎え称賛し祝福した。

11.名堂 – 명당 –

ある日、吉童は天体の観察をして星の動きで将来を占っていると突然涙を流し始めた。

隣に居た白氏夫人が驚いて吉童に尋ねた。

「なぜ急に悲しまれますか?」

吉童はため息をついて言った。

「私が天体の動きで両親の安否を推し量っていたが、間もなく父上がこの世を旅立たれる様だ。この身はこの様な遠方にあって容易に行くことも叶わず、生前に父上にお会い出来ない事が悲しくて泣いているのだ。」

白氏夫人は話を聞いて共に悲しんだ。

翌日、月峯山に登ると名堂(ミョングダング)を選んで墓所を作る準備を始めた。また、墓所の石碑は王の陵と同じ形式とした。

そうした後に、全ての兵士を集めて命じた。

「某日某時、大船を一隻準備して朝鮮に行き漢江の西岸で待て。」

すると吉童は直ちに剃髪して僧の姿へとその身を変えた。

「なぜ急に髪を剃られたのですか?」

白氏夫人が訊ねた。

「二度と朝鮮へは戻らないと約束したのだから、私が出し抜けに行けば皆が驚くであろう。男が交わした約束なのにどうして破ることが出来ようか。誰にも気付かれない様に行こうと思う。」

準備を終えた吉童は雲に乗って朝鮮の都へと向かった。

その時、都の洪判書の屋敷では病の床にある洪判書(ホングパンソ)の病状が重篤となっていた。すると洪判書は柳氏夫人と仁珩(イニョング)を呼んで諭した。

「私も歳が90となり、何時死んでも未練は無いが吉童の安否が分からない事だけが気掛かりだ。私が生きていればいつかは訪ねて来るだろうが・・・・、嫡子・庶子を区別して冷遇せずに同じ兄弟として待遇しなさい。」

洪判書はそう言い残すと息が尽き、屋敷中が大きな悲しみに包まれる中で葬儀が執り行われた。

ところが墓所とする場所を探してみたが適当な場所が見つからなかった。皆、それが気掛かりで落ち着かずにいる所に門番が来て伝えた。

「見知らぬ僧が門前に来て、弔問に訪れたと言っております。」

不思議に思いながら家内に入れる様に伝えると、その僧が入って来て声を挙げて泣き始めた。その場に居た者は事の経緯を理解できず、互いに顔を見合わせるだけで言葉が出なかった。

「あなたは父上と生前にどの様な御縁が御座いましたか?」

やがて僧の泣き止む頃合いを見計らって仁珩が尋ねた。

「兄上はこの弟をお気付きになりませんか?」

僧が仁珩に言った。

そう言われて良く見ると果たして吉童であった。仁珩は吉童の肩を強く抱きしめ慟哭しながら言った。

「弟よ、これまで何処に居たから今来たのか?父上は最期までお前を忘れることが出来ずに亡くなられたのに、この様に嘆かわしい事があるだろうか。」

そして手を引いて内堂に連れて行くと、母夫人の柳氏夫人に挨拶をする様に促し、生母である春繊(チュンソム)にも引き合わせた。

「なぜ今頃来たのか?お父上がどれだけお待ちになられたか・・・・」

ひとしきり慟哭した後で生母・春繊が言った。

「お前は、なぜ僧になったのか?」

吉童が答えた。

「私は朝鮮を出てから僧になり地脈を見る技術を学びましたが、そのお蔭で父上の為に名堂を求めておきましたので御心配なさらないでください。」

その話を聞いて仁珩は大変喜んだ。

「お前の才は良く理解っている、お前が選んだ墓所に何を心配する必要があるだろうか。」

その日の晩は、久しぶりに母子兄弟が夜を通してこれまでに出来なかった話を交わし合った。

次の日、棺を運び出す際に吉童が柳氏夫人に言った。

「私はこの度、此処に戻って来て母子の情を充分に交わし合う事が出来ませんでした。この際、生母・春繊を共に私の処へ連れて行ってはいけませんか?」

すると柳氏夫人がこの願いを受け入れ、吉童は直ちに帰路に付いた。

兄・仁珩、生母・春繊と共に漢江の西岸へ行くと、吉童の指示通りに部下達と船が待っていた。

吉童たちを乗せた船は矢の様に早く進み、ある処まで来て見ると数十隻の船に乗った多くの人たちが出迎えに来ていた。互いに再会を喜び合い、吉童たちの船を護衛するかのように進む姿が勇壮であった。

葬礼の行列はいつの間にか山上に到着しようとしていた。

「此処に父上を埋葬しようかと思います。如何でしょうか、兄上?気に入って頂けましたでしょうか?」

仁珩は改めて周囲を良く見渡し、その山の勇壮さに吉童の知識の広さを改めて感嘆した。

「何と名堂であろう。後方は屏風の様に山裾が広がっていて、前方はさっと開け放たれていて・・・・、ご苦労だった。」

「息子として成すべき事を成したまでです。」

墓所での諸事を済ませて吉童は生母・春繊、兄・仁珩と共に住まいに戻った。

白氏と趙氏の両夫人が姑と義兄に恭しく挨拶をした。

「御挨拶が遅くなりまして申し訳ございません。」

仁珩と春繊は吉童が良い妻を娶ったと褒め称えて喜んだ。

そうして数日が過ぎて仁珩が都へ戻る日になった。

吉童は仁珩の旅支度を整えると、兄弟は別れの情を互いに惜しんだ。

仁珩は父の墓前で暇乞いをすると、墓所の後事を吉童に託して旅立だった。

都に戻った仁珩は柳氏夫人に帰朝の挨拶を済ませると、前後の事を最初から最後まで夫人に報告したが、夫人はとても不思議そうに聞くのだった。

12.理想郷・栗島国  – 이상향 율도국 –

吉童(キルドング)は、祭典を丁重に執り勧め父の3年忌を済ませた。

そうした中でも部下達には武芸を磨かせ農業に精勤させると、多くの兵士は勇猛で天下に彼等に対抗しようとする者が無い程となり糧食も充分に蓄えられた。

南の海に粟島(ユルト)と言う国があるが、肥沃な土地が数千里も続き国は太平で物産は豊富であった。

吉童は済島にだけ籠っていて歳月を送る事は出来ないと考えていて、何人かの将を集めて尋ねた。

「私は栗島国に移って、我々の本拠地としようと思うが皆の考えは如何であろうか?」

「賛成です。今すぐにでも突き進みましょう!」

兵士たちは直ちに出動の準備に取り掛かることとなった。

全ての準備が終わると。

「うぉー!」

出発を前に兵士たちが歓声を挙げた。天地を引っくり返す程の叫び声だった。

「その位に皆の士気が高ければ我々に勝算がある、さぁ!出発だ。」

吉童が自ら先鋒となり総軍五万人を従えて出発した。

兵たちを乗せた百余隻の船は南の島の粟島国へ向かってゆっくりと進んだ。船は吉童が乗った船から打ち出される太鼓の音に合せ秩序をもって進んだ。

「おいっ、あれは何だ?」

栗島国の沿岸を警備していた兵士が近付いてくる船の行列を見て叫んだ。

「あっ!敵だ!」

最初に事態を推し量った栗島の兵士たちは、いち早く見張り小屋の前に着けて置いた馬に乗り鉄峯山へと走った。鉄峯山は栗島国の要所でもあり、とても重要な陣地で、この陣地を守る太守・金賢忠(キムヒョンチュング)は栗島国で最も優れた将であった。

「将軍様!敵が来ます!」

息を切らせて走って来た兵士は流れる汗も拭かぬまま報告した。

「敵だと?」

太守・金賢忠は驚いて席を立った。

「兵士をいっぱいに乗せた船・百余隻にも成ろうかと思われます。」

金賢忠は一方では兵士を都城へ送って方へ敵の侵入を知らせ、自身は一群の兵を引き連れ海辺に下りていった。

この時、吉童が率いた兵士は既に上陸しようとしていた。

海をいっぱいに埋め尽くすかのような船、風になびく旗、秩序を持って行動する兵士の姿は見るだけで圧倒される程であった。

何ら手を打つ間もなく吉童の兵たちは船から降りて整列した。

「あぁ、遅かったか。」

やがて両軍が向かい合った。

「一体、お前たちは誰なのか?我々の許しも無く、何の用でこの地に来たか?」

金賢忠が先に声高に怒鳴った。

「我々は栗島国を治める為に来た。大人しく降伏すれば罪の無い兵士たちは生かしてやろう。さぁ、早く降伏しろ!」

吉童も負けずに怒鳴った。凛々と響き渡る声であった。

「降伏だと?大人しく帰らなければ、この剣が容赦はしないぞ!」

各々の軍を後ろに従えたまま、吉童と金賢忠が言い合った。静かであった海辺に、大声と共に剣と剣がぶつかり合う音が響いた。瞬く間に双方が揉み合うこととなった。しかし、金賢忠は吉童の敵ではなかった。

吉童の剣が降り降ろされた瞬間、金賢忠の首はその胴体から離れていた。

「進撃だー!」

吉童が声を叫ぶのと同時に「オー」と答えて兵たちが突き進んだ。将を失った栗島国の兵士たちは、先を争う様に抜けていった。

やがて鉄峯を陥落した吉童は大軍を率いて都城へと向かった。

吉童の軍は四日後には都城に到着した。

吉童は兵たちに都城を取り囲ませると檄文を書いて送ったが、その内容は次の様であった。

 

義兵将・洪吉童は栗島国の王に謹んで書を送る。天下は一人の手によって永く治めることが出来ないものだ。私は天の命を受け、軍を率いて鉄峯を陥落して此処まで来た。王は我々に対抗できるのであれば戦い、そうでなければ命を永らえる事を考えろ。

 

栗島国の王はこの書を見ると驚いて顔色が変わった。

「我が国の国防は鉄峯だけに賭けていたのに、もはやその地も無いと言うのにどうして彼等に対抗出来ようか?」

「恐縮で御座います。洪吉童の軍は本当に天が下された軍であるとの話があります。洪吉童は雲を思いのままに操り、縮地法を使ってまばたきをする間に数千里を走ったかと思えば、遁甲術で人の目をくらまし、兵法と武芸に優れ、我軍の兵が申しますには正しく天下無敵と言っております。」

一人の臣下が涙を流しながら上奏した。

「どうすれば良いのか。」

王の目にも涙が光っていた。

臣下たちの意見は命を掛けて戦おうとするものと、降伏しようとする者に分かれた。しかし結局は降伏しようとするものが多数を占めた。

「戦う事に固執してこの国の純朴な農民たちを犠牲にする事は出来ない。」

王はついに数人の臣下を引き連れ吉童に降伏を申し出た。

吉童は城内に入ると、先ず農民達に向かって言った。

「農民たちは動揺することなく各自日頃の仕事をせよ。間違っても我々に反抗しようとしてはいけない。」

日を置いて吉童は王位に就いた。栗島国の王は義領君に封じられ、吉童の副将たちは爵位を受けることとなった。

その後、朝廷の全ての役人たちは国の永遠の発展を願った。

「栗島国萬歳!」

「洪吉童大王萬歳!」

その声が栗島国の城中に響き渡った。

 

王が国を治めて三年が過ぎた。

山には盗賊が無く、道に物が落ちていても拾い奪うものが無く、まさに太平成勢であった。いつも食べる物に困る事は無く、行く先々で豊年を喜ぶ歌が聞こえた。

王が白龍を呼んで言った。

「朝鮮の王に表文を書いて送ろうと思うが、卿が使者として言ってほしい。」

そして表文と共に洪家に送る手紙を書いた。

「御心配に及びません。最善を尽くして参ります。」

白龍が腰を折って答えた。

数日後、白龍は朝鮮に到着すると先ず朝廷に表文を奉じた。

王はその表文を受け取るととても称賛した。

「洪吉童は本当に奇妙な才を持っている。」

そして直ちに臣下に命じた。

「洪吉童が栗島国の王になったと言うが、これ以上の慶事がどこにあろう。我々も答礼の使臣を遣わして、今後両国はもっと仲良くすることに努めよう。」

栗島国の使臣たちの為の宴会が終わると、王は吉童の兄・仁珩(イニョング)を栗島国の答礼の使臣に命じた。

仁珩は王の恩に感謝して家に戻ると、宮中での出来事を柳氏夫人に話した。

柳氏夫人もとても喜んだ。

「それは聞いただけでも、とても嬉しい話だ。お前が行くなら、私も一緒に行って見たいものだ。」

「船旅はつらい事もありますが大丈夫ですか?もし、船酔いなどでもされれば・・・・」

しかし柳氏夫人の意志は固く、仁珩は仕方無く柳氏夫人と共に出発した。使臣・仁珩を始め一行を乗せた船はすがすがしい風を受け順調に進んで行った。

数日して船が栗島国に着くと、王は先ず香を焚いた卓子をおいて儀礼を執り行い朝鮮王の親書を受けた。そしてその後に柳氏夫人と仁珩との嬉しい再会を果たした。

「母上、そして兄上、遠路お越しいただき有難うございました。」

久しぶりに会った家族達は洪判書の墓所に参った後、大宴会で楽しんだ。

しかし数日後、柳氏夫人が急な病を得てこの世を去ってしまった。吉童と仁珩は悲しみ、父・洪判書の墓所の隣に葬った。そうした後に仁珩は王と別れ朝鮮に戻ると、使臣としての報告を上奏した。

「御苦労であった。ところで今度の旅で母君を亡くされたと聞いたが、何と言って慰めたら良いか分らない。」

「聖恩至極にございます。」

仁珩は王の慰めの言葉に目頭を熱くした。

 

栗島国の王は柳氏夫人の三年忌を厳かに済ませた。

それからしばらくすると、彼の母である大妃がこの世を去ると、はやり父・洪判書の墓所の隣に安蔵した。そして、さらに歳月が流れ大妃の三年忌を済ませた。

王は三人の息子と二人の娘を授かったが長男と次男は白氏との間の子で、三男と娘たちは趙氏との間に生まれた子であった。長男を世子として他の王子たちは全て君じた。

王が国を治めて三十年を過ぎた年に屹然と病を受けこの世を去るが、この時70歳であった。王妃が後を追う様にこの世を去るが、その姿はとても安らかに見えた。

その後は世子が即位して代々引き継がれ太平聖代が続いた。

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